スコットランドについて
スコットランドは、英国の中で地図で青色で示しているところだということを知っている方は沢山いらっしゃると思います。では、グレートブリテンとブリテンの違いや英国の正式名称はご存知でしょうか?
まず、グレートブリテンとブリテンの違いはあまり難しくありません。地図でピンク色で示したように、ウェールズ+イングランドがブリテンで、ブリテン+スコットランドがグレートブリテンだということです。
英国の正式名称は United Kingdom of Great Britain and Nothern Ireland といいます。国連などでは United Kingdom という略称が国名として使われます。外務省はこの国を日本語で、英国(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)と表記しています。イギリスという国は、日本の外交的には存在しないということにもなろうかと思います。そして、この連合王国の大使館は、"英国大使館"と表記されているのです。これはよく考えれば、イングランド由来のイギリスという国名で表記されれば、ウェールズやスコットランドの方々にとっては、自国名と思えないという問題にもなろうかと思います。
スコットランドには、自国に誇りを持っていらっしゃる方が沢山います。くれぐれもイギリス人と呼んだりしないようにしましょう。
スコットランドの守護聖人(St. Andrew)と "国旗"(St. Andrew's Cross)
スコットランドにも"国旗"があります。右の図にあるように、青字に白のバッテンをつけたようなデザインで、St. Andrew's Cross と呼ばれています。
この St. Andrew はご存知のようにイエス・キリストの十二使徒の一人でスコットランドの守護聖人なのですが、では、中東地域に生まれた彼がどうしてスコットランドの守護聖人となって、国旗のデザインが青字に白のバッテンなのでしょうか?
St. Andrewはローマ帝国支配下のイスラエルあたりの人で、元々は兄弟のペテロと一緒に漁師をしていました。今のルーマニアからロシア方面に布教に行き、最後はギリシアで亡くなっています。そのため、ロシア、ルーマニア、ギリシアの守護聖人でもあります。つまり、彼は存命中にはスコットランドに来たことがないのです。
キリスト教がローマの国教となる前は、キリスト教とそれを布教しようとする人々は取締りの対象で、St. Andrewもギリシアで捕まってしまい×型の十字架にはりつけられ処刑されてしまい(右図:聖アンデレの磔の様子/Wikipedia英語版より)、その地で埋葬されました。St.Andrew's Cross はこの時の磔に使われた×型の十字架の形に由来します。
時は流れて300年後、ローマの宗教はキリスト教となっていて、皇帝コンスタンティヌスは、St. Andrewの遺骨をコンスタンティノープルへ移そうとします。しかし、修道士のレグルスは、夢の中で遺骨を安全に保つために「地の果て」に移せという天使の命令を聞きます。そして、当時は辺境の地で最果てと考えられていたアイルランドもしくはスコットランドに遺骨の一部を移すことになり、現在の St.Andrew に礼拝堂をたてて遺骨の一部を埋葬したのです。この場所になったのは、修道士レグルスが遺骨の一部を持って乗っていた船が、 St. Andrew 界隈で難破したという偶然も手伝っていました。
さらに400年以上経った832年。このころスコットランドは、ピクト族、スコット族などのケルト系民族の連合王国となっていました。当時の王はピクト人のOengus二世。イングランド北部には、ゲルマン系のアングル族が打ち立てたノーサンバランドという王国ができていました。そのアングル族がスコットランドに攻めてきたのです。Oengus二世が即座に対応して戦争となります。
戦い前の前の夜、St. AndrewはOengus二世の夢にでてきます。もし、わたしをスコットランドの守護聖人にするならば、この戦いに勝利させようというのです。驚いたことに"守護聖人の押し売り"のような夢にでてきたのです。翌日、Oengus二世は戦いの祈りのなかで St. Andrew に対して、もし、この戦争に勝利できるのなら、あなたをスコットランドの守護聖人として崇めます、と誓います。そして、St. Andrew は、再び彼の夢の中にでてきて、スコットランドの勝利を約束しました。翌日、戦闘前に青空にX型の白雲がでているのが見つかります。これをみたスコットランド軍は、St. Andrew の庇護を感じ、数的には不利だったにも関わらず、この戦闘に勝利してしまったのです。
St. Andrewは本当にスコットランドを守り、Oengus二世は約束通り St. Andrew をスコットランドの守護聖人と定めたのです。さらに、青空に浮かんだ白雲のバッテンは、St. Andrew がハリツケにされたX型の十字架を表しているものと考えて、青地に白のバッテンのデザインの旗を国旗 St. Andrew's Cross と定められたというわけです。
これで、スコットランドの守護聖人が St. Andrew な理由と、そのデザインが青地に白のバッテンなのがわかっていただけたと思います。
スコットランドの国花
アザミの花 (Wikipedia 英語版から) |
Order of the Thistle (Wikipedia 英語版から) |
日本の国花をご存知ですか。法律で定められたものがないので、やはり日本の花は桜という説と皇室を代表するので菊とする説があるそうです。では、スコットランドの国花はなんでしょう?これはアザミ(英語では thistle )なんです。これは、8世紀から13世紀までヴァイキングの侵入に苦しんだスコットランドで、侵入してきたヴァイキングの兵士が刺のあるアザミを裸足で踏んでしまい、痛みに耐えかねて大きな声を出したことで、スコットランド兵がその侵入に気が付き多くの兵を助けたことに由来するとされています。
実際には、この戦いはノルウェーのハーコン4世に率いられた軍勢が攻めてきて、迎え撃ったスコットランド王アレキサンダー3世との間で戦闘となった、1263年10月2日のLargs(スコットランドのグラスゴー西部にある海辺の地名)の戦いであったとされています。ハーコン4世は、初期のバイキングの攻勢によって支配していたヘブリディーズ諸島の支配権がスコットランドに奪還されていたのを再度自分たちが支配するために軍勢を派遣したのです。実際の戦闘は伝説と異なり戦いそのものはノルウェー軍が勝利するものの、アレクサンダー3世の巧みな交渉でヘブリディーズ諸島はスコットランドに帰属すると正式にまとまり、スコットランドの領土は護られたのです。このため、このような伝説になったのではないかとされています。
そして、実際にアザミをスコットランド国花に制定されたのは、スコットランド王ジェームズ3世(在位:1452年 - 1488年)によって、15世紀になってからです。
また、スコットランド最高の勲章は Order of The Thistle となっています。現在の正式名称は The Most Ancient and Most Noble Order of the Thistle ですが、最初に制定したのは誰か?については、種々議論があってまだ確定していないようです。現代のこの勲章制度を定めたのは、スコットランド王としてはジェームズ7世、イングランド王としてはジェームズ2世の時代で、これははっきりとしています。しかし、もっと古くからこの勲章は存在していて、最初に定めたのはアカイウスで、809年に同盟を記念してフランク王国カール大帝に送ったのが最初という説があり、実際にカール大帝がスコットランド王国の守護者となったため有力な説となっているそうです。さらに、アザミを国花と定めたジェーズム3世がこの勲章も最初に定めたのではないかという説もあるそうです。
スコットランドの"国歌"
正式には、スコットランドは独立国ではないので"国歌"があるのは変だなという感覚をお持ちの方も多いと思います。実はそのとおりで、スコットランドを含む United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland の国歌としては、God save the Queen(King) が知られています。
この God save the Queen(King) が作られたのがいつか?ということを知っていると、スコットランドでは、この"国歌"を受け入れがたい感情を持っている方々が多いということも理解してもらいやすくなります。この歌ができたのは1744年。"ボニープリンス"チャールズが翌1745年にはスコットランドに上陸を果たすものの、この1744年には上陸に失敗したことが伝わったのです。彼がスコットランド王位を主張して、ハイランドの氏族たちとロンドンに向けて進行してきたときに、イングランドでは、この歌が人気となりイングランドの王を護りたまえ歌ったのが、当時の"God save the King"だったのです。
そのため、今では歌われることのなくなった6番の歌詞の中には、次のようなフレーズがでてきます。
Rebellious Scots to crush,
God save the King.
反逆せしスコットランド人を破らしめむ
神よ女王(国王)を守りたまへ
Wipipedia日本語版(http://ja.wikipedia.org/wiki/女王陛下万歳より)
ただし、この歌詞は1837年出版の本にはでてくるものの1745年出版の本にはでてこないため、ジャコバイトの乱のときにはこの歌詞の部分が歌われていなかったという説もあります。
さて、スコットランドの正式な国歌といえども、こういう背景がある歌を国歌とするとどんなことが起こるかという例をあげましょう。サッカーのスコットランド代表チームがスコットランドで試合をするとなれば、必ず国歌斉唱があります。実際に God save the Queen が歌われたことがあるのですが、自国の国歌斉唱というのに会場からはブーイングが鳴り止まなかったそうです。
こんな事態が続いて、ラグビーの代表チームは、スコットランドのフォークグループ、ザ・コリーズが作った"Flower of Scotland "という歌を Offical Antem として採用し、続いて1993年からはサッカーの代表チームもこの歌を Offical Antem として歌うこととなり、スタジアムから国歌斉唱時のブーイングはなくなりました。
では、この"Flower of Scotland "はどんな歌詞なのか気になりませんか?それがなんと1745年のジャコバイトの乱から遡ること431年、ロバート1世がイングランドのエドワード2世を破った1314年のバノックバーンの戦いにその題材がとられているのです。
1番の歌詞をみてみましょう
O Flower of Scotland,
When will we see
Your like again
That fought and died for
Your wee bit hill and glen.
And stood against him,
Proud Edward's army,
And sent him homeward
To think again.
(http://en.wikipedia.org/wiki/Flower_of_Scotlandから)
すごいと思いませんか?いまだに700年前のことを思い続けているというのも。2,3番の歌詞もぜひ一度見ていただけるとよりその強い思いが伝わると思います。
この歌詞はやり過ぎだという議論もあって、別の曲にすべきだという主張もあるそうです。そこで、上記サイトにはスコットランド国歌としてはどの曲がふさわしいかという2006年になされた調査結果も載っています。
曲名 | 得票率(%) |
Flower of Scotland | 41% |
Scotland the Brave | 29% |
Highland Cathedral | 16% |
Is There for Honest Poverty | 8% |
Scots Wha Hae | 6% |
Flower of Scotland と Scotland the Brave は、10ポイント程度の差でスコットランド国歌の座を争っていると見ることもできましょう。
正式な"国歌"が制定されるまでには、まだ時間がかかるのかもしれません。