スコットランドの守護聖人(St. Andrew)と "国旗"(St. Andrew's Cross)

2023.04.20 

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スコットランドにも"国旗"があります。右の図にあるように、青字に白のバッテンをつけたようなデザインで、St. Andrew's Cross と呼ばれています。
この St. Andrew はご存知のようにイエス・キリストの十二使徒の一人でスコットランドの守護聖人なのですが、では、中東地域に生まれた彼がどうしてスコットランドの守護聖人となって、国旗のデザインが青字に白のバッテンなのでしょうか?

St. Andrewはローマ帝国支配下のイスラエルあたりの人で、元々は兄弟のペテロと一緒に漁師をしていました。今のルーマニアからロシア方面に布教に行き、最後はギリシアで亡くなっています。そのため、ロシア、ルーマニア、ギリシアの守護聖人でもあります。つまり、彼は存命中にはスコットランドに来たことがないのです。

聖アンデレの磔の様子(Wikipedia英語版より)キリスト教がローマの国教となる前は、キリスト教とそれを布教しようとする人々は取締りの対象で、St. Andrewもギリシアで捕まってしまい×型の十字架にはりつけられ処刑されてしまい(右図:聖アンデレの磔の様子/Wikipedia英語版より)、その地で埋葬されました。St.Andrew's Cross はこの時の磔に使われた×型の十字架の形に由来します。

時は流れて300年後、ローマの宗教はキリスト教となっていて、皇帝コンスタンティヌスは、St. Andrewの遺骨をコンスタンティノープルへ移そうとします。しかし、修道士のレグルスは、夢の中で遺骨を安全に保つために「地の果て」に移せという天使の命令を聞きます。そして、当時は辺境の地で最果てと考えられていたアイルランドもしくはスコットランドに遺骨の一部を移すことになり、現在の St.Andrew に礼拝堂をたてて遺骨の一部を埋葬したのです。この場所になったのは、修道士レグルスが遺骨の一部を持って乗っていた船が、 St. Andrew 界隈で難破したという偶然も手伝っていました。

さらに400年以上経った832年。このころスコットランドは、ピクト族、スコット族などのケルト系民族の連合王国となっていました。当時の王はピクト人のOengus二世。イングランド北部には、ゲルマン系のアングル族が打ち立てたノーサンバランドという王国ができていました。そのアングル族がスコットランドに攻めてきたのです。Oengus二世が即座に対応して戦争となります。

戦い前の前の夜、St. AndrewはOengus二世の夢にでてきます。もし、わたしをスコットランドの守護聖人にするならば、この戦いに勝利させようというのです。驚いたことに"守護聖人の押し売り"のような夢にでてきたのです。翌日、Oengus二世は戦いの祈りのなかで St. Andrew に対して、もし、この戦争に勝利できるのなら、あなたをスコットランドの守護聖人として崇めます、と誓います。そして、St. Andrew は、再び彼の夢の中にでてきて、スコットランドの勝利を約束しました。翌日、戦闘前に青空にX型の白雲がでているのが見つかります。これをみたスコットランド軍は、St. Andrew の庇護を感じ、数的には不利だったにも関わらず、この戦闘に勝利してしまったのです。

St. Andrewは本当にスコットランドを守り、Oengus二世は約束通り St. Andrew をスコットランドの守護聖人と定めたのです。さらに、青空に浮かんだ白雲のバッテンは、St. Andrew がハリツケにされたX型の十字架を表しているものと考えて、青地に白のバッテンのデザインの旗を国旗 St. Andrew's Cross と定められたというわけです。

これで、スコットランドの守護聖人が St. Andrew な理由と、そのデザインが青地に白のバッテンなのがわかっていただけたと思います。